ふつうじゃなくても生きられるか

病んでる日記・ASDで双極性障害の人が日々考えること

衝撃の事実

考え過ぎて頭がパンクした

食事のこと、可能性を奪うについて、自分の特性…

パンクしてどうしようもないので、母と電話で話す

わかったこと

①続けられなかった仕事はすべて「ダメだったこと」と処理されている

②ほめられたことがないと言うのは主観的なこと、客観的事実としてはほめられてきた

 

①に関して

問題は、仕事の内容は「できていた」のに、上司・同僚にうまく特性を伝えられず自分を追い込んで「仕事が続けられなかった」から【その仕事はできなかった】と処理されていること

短期のバイトを除けば、途中でやめてしまった仕事ばかりなので、全部【できなかった】になり【私にできることはなにもない】状態に陥っている

これは大問題だが、どうすれば認知システムが変わるのか不明

 

②に関して

覚えていなかったが以前にも母に「ほめられたことがない」と言ったことがあるらしい

今もそう思っていると伝えると母はショックを受けていた

「お母さんもおばあちゃん(母方)もみんなたくさんほめたきたのに…」

私、ほめられていたらしい

知らんがな

全然覚えていない

なんのことかさっぱりわからない

「○○ちゃんはすごいね、さすがおばあちゃんの孫!」

「○○ちゃんはさすがだね、さすが私の姪!」

とよく言われてきたのは覚えている

この場合、私の脳内では【おばあちゃんや叔母さんがすごいから私はこれができるのだなあ】と処理される(であろう)

褒め方の問題だったのか?

それだけではない気がする

 

小学校三年生の図工で描いた絵が、夏休みのワーク(県のものか全国のものかはわからない)の表紙になった

母は「担当の先生が『細かい絵を根気よく最後まで描けて、こんな子はなかなかいません』とほめてくれた」と話した

私の記憶では「決められた時間内に終わらせられず、休み時間も仕上げにいった、みんなは時間内にできたのに私はできなかった」となっている

ワークの表紙になって表彰されたはずなのだが、特にうれしかった覚えもなく

周囲と自分の認知のギャップが生じている

 

これまで「できたこと」はたくさんあるはずなのに、すべてなかったことになっている私の脳みそ

これがASDゆえの問題ならば、なんて損な構造だろうと思う

特性を理解されないまま子ども時代を過ごしてきた代償なのか

それならば早期に発見されて、特性にあった声かけや認知の方法を覚えられたほうがよかった

私ならば、具体的にこういうとことがよかった、これができたとか言ってくれてたら違ったのかもしれない

すごいね、さすがだね、なんでもできるねは褒め言葉になっていないのだ

今から脳の仕組みを改変していくのか?自力で?

やっぱり途方に暮れるのである