ふつうじゃなくても生きられるか

病んでる日記・ASDで双極性障害の人が日々考えること

誤解していたこと、褒められたこと

診察日

借りた道具を今日は少しマシに扱えるようになった

やはり慣れ?

持ち方や角度を変えてみたら昨日よりはうまくいったと思う

道具のことと言えば、心理士さんと今日話したら、効率の良さというよりも「省エネ」で出来る方法を見つける身につけることが大事らしい

長く続けるために

効率の良さと省エネは似たようなもんだし、お互い通じるものもあるだろうから見当違いということもないけど、なんとなく誤解していたんだなあと思った

便利な道具を使って身体が痛くならずに作業出来るようになれば、確かに長く続ける道が見えるのかもしれない

試すとか変えるとか嫌だとも思うけど、やってみたら案外楽だったということも多々あるわけで、自分のやり方に固執するのもほどほどにできたらいいなあと理想を掲げたりする

いろんな自分の考えが出てきて、それは昔に比べたら柔軟になったんじゃないかな

 

意外なことで心理士さんに褒められたので記録しておこう

季節柄なのか、中学生の頃を思い出して嫌な気持ちになることが多いと言ってみたら、そういう気持ちになったときにどう対処しているの?と質問された

頭の中で『私はこんなでした紹介文』を作っていると答えた

これは頭の中でブログを書いているみたいな感じ

思い出した記憶を文章にして誰かに読んでもらおうというつもりで、「こういうことがありました」「こんなふうに思いました」「これは私だけなのかな」とか言葉を連ねていってる

まあそれを実際に見える文字として書き起こすことはないんだけど

そういうふうに嫌な感情になる記憶と付き合うのはとても良いことだよと言われて、ちょっと、だいぶびっくりした

良いことか悪いことかっていう意識をしていなかったので

 

嫌な気持ちになったときに、その気持ちを無理やり排除しようとすると余計にその気持ちに支配されるというのは、随分前から話をしてくれていたので知っていたけど、じゃあどうするかっていうので、気持ちを認めて横に置いておくっていうのは意識してやっていた

記憶をたどって文章にしていく作業は、嫌な記憶や気持ちと少し付き合ってあげるということになるらしく、それはそれでネガティブな感情に支配されないで済む方法らしい

文章にするってことは自分でコントロールできる部分があるわけで、ただ映像がフラッシュバックしているよりは、嫌な気持ちへの飲み込まれ具合が軽減するとか

言われたら確かに理屈はわかる

そして言われてみたら頭の中で文章を書いて記憶と付き合ってると、ずるずると沼に引きずり込まれていく感じがない

文章を書くのに飽きたら再生されてた記憶も薄れてる

これ、多分実際に文字にしないのがかなり重要だと思う

目に見える形にしてしまったら深みにはまる、私の場合はね

感傷に浸りすぎて生活に支障をきたしてはいけないと心理士さんが言っていたし、頭の中で構成するところで留めておくのがいいんだろうな

 

この方法が自然にできるようになったのは日常的にブログを書くようになったからだと思う

自分だけが読める日記を書いてただけじゃできなかっただろうな

誰かが読んでくれているという感覚を持てているからこそできるんじゃないかな

そういうわけでブログを続けていてよかったと思ったし、読んでくださる方々がいることに感謝だなと思いました

いつもありがとうございます

 

明日も仕事がんばるぞー