診察日
やけくそなのか、疲れ切っているのか、診察に行く私を演じられなくて、思っていることを正直に話してしまった
本来、それは主治医と信頼関係を築くいい方法だと思うけど?
中学生の頃のことを思い返してしんどいという話をする
主治医がかなり本気で聞いてくれて意外だった
しんどい気持ちになるのは、とてもつらい思いをして身体も心もボロボロになったのにどうしてそのとき自分の正体がわからなかったんだろうかと、自分や周りを責めるような思いになるからだと説明した
冷静に考えて当時の状況で自分がASDであるとわかるのは無理だっただろうと思うし、主治医も仮に私が感じている違和感を訴えたところで専門家にもわからなかったと思うと言っていた
それをしかたないと納得するには現状の生きづらさがもう少し緩和されないと難しいねという結論になる
過去のつらさが今に繋がっていて、今が改善されたら過去のことも捉え方が変わるかもしれない
心理士さんとは別の話
私は他人からの評価にばかりこだわっていると指摘された
自分の力をその通りに信じられないと言ったら、自分の力と言っているのは他者から評価されている部分だろうとのこと
それを信じられない自分を責めて苦しんでいるってことかな
他者からの評価によって動くことが必要なときもあるけど、そればかりに偏っていたらラクになることはないと言っていた
その意味はわかる
自分が自分のことをこういうものだと認めるとか受け入れるとか納得するとか、自分自身がこれでいいんだと思う軸も必要だそう
それもわかるけど
自分はなにをやってもすぐにダメなところを見つけてぜんぜんうまくいかないと思っているのを、そのままそれが自分だよねと思えばいいらしい
つまり自信がないのが自分だと受け入れたらいいってことか
ここまでは理解した
自信がなくてなにをやってもダメだと思うのが自分だと受け入れて、じゃあそれで社会でやっていけますか
他者からの評価をもとに動くことが必要なときもあるって言うけど、仕事なんかまさにそれではないの
仕事っていうか今の自分だと就活かな
自分ではなにもできないと思っているけど、心理士さんも主治医もだいたいのことはできるとか、環境が合えば能力を発揮できるとか、できるできると言うのを受け入れて自分はできるんだと無理やり思って、本当は自信ないけど求人に応募して書類選考されたり面接受けたりするんか
そんなもん?
自信で満ち溢れた人ばかりではないというのはさすがにわかるけど、なにもできないと思っているところから自分を騙して虚勢を張って仕事を始めるものなのかな
そうなのかなあ
これはまだよくわかんない
心理士さんは時々だいたいの人はそうだよみたいなことを言葉の裏に隠して伝えてくるようなところがあるんだけど、それも自分が正しく読み取れているか怪しいからなんとも言えない
今日わかったことは、自分の人格が二つ三つ分かれているみたいに、能力の面でも自分が思っている自分と、他人から見た自分と二つあると思えばいいということかな
それがどう作用するかわからないけど、他人から見た自分でいなきゃいけないと神経を擦り減らす必要はないみたいだ
できないと思っている自分が自分だと認めてしまえばいい
他人が言っている自分のことは受け入れがたくても、そう見えるんだなあと思って自分像にストックしておくというかね、とりあえず置いておけば使えるときがあるかも
心理士さんに言われたのは自分の軸と他者の軸と両方を意識するのは私には難しいんだろうけど、どっちかに偏ったときに違う軸もあるよなと思い出してほしいということ
多分、視野を広くの一部だ
暖房を使わなくなってサーキュレーターで洗濯物を乾かしているのだけど、あの音はメンタルがやられますね
換気扇の音とか苦手だし当然と言えばそうだ
一日部屋にいるのが悪いとも言えるけど現状それしかないんで、サーキュレーター使う時間を減らして、ちょっと手間とお金がかかるけどコインランドリーを利用したほうが穏やかに過ごせるとわかった
わかってよかったじゃん
お金がないと言ったって快適に過ごすために使うことをためらっていたら、もっと健康を損なうと思うな
できるだけまとめて洗濯するようにすればいいんかな
いろいろ工夫してやらねばな